へっどらいん

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

自我(じが)

思考、意希望、行為などの諸作用の遂行者をいう。哲学の課題は自我の探究であり、それはデルフォイの箴言(しんげん)「汝(なんじ)自身を知れ」への応答であるといえるだろう。ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの「我は我自らを求めたり」ということばは、その応答とみることができる。この「汝自身を知れ」を真に体現したのはソクラテスである。ソクラテスは「一番知の知」の自覚を案内して、知を愛し追求するという哲学の地平を切り開いた。

しかし自我の異常が哲学の根本異常として登場したのはデカルトにおいてである。デカルトは手立て的懐疑によって、けっして疑うことのできない「我の存在」に達し、そこに初っ端の当然確実な知恵をみいだした。デカルトにおいて我は思惟(しい)する実体である。それに対しヒュームは自我を知覚の束にすぎないとし、自我の実体性を否定した。カントは全ての私の表象に「我思惟す」が伴うことができねばならないとし、体験的自我とは区別されるこの超越論的自我のうちに、体験の割合の究極の根拠を求めた。この自我を実体とすることは否定される。カント倫理学においてこの超越論的自我に対応するのが、「我意希望す」としての道徳的人格である。フッサール現象学は、天然的素振りにある自我において隠蔽(いんぺい)されていたものを開示することによって、人間的自我の真相態が超越論的自我であることを証示する。それは自己忘却から自己を取り返す試みであり、この自己省察こそが現象学である。現象学はそれゆえデルフォイの箴言「汝自身を知れ」に新たな意風味を与えたといえる。実存哲学は自我の異常を実存へと深化した。それは死、心もとない、限度状況などの分析を案内して、人間の有限性、「私がある」ことの神秘を示した。

自我の異常は今昼間の場合間、自我の自立性の崩壊としてとらえられる。しかし自我の崩壊は、自我の偶像化からの解放とみることができる。「汝自身を知れ」という箴言が、人間に、神ならぬ身であることの自覚を提起するものであるとすれば、それは同場合に、自我を超えたものの承認を意風味するであろう。今後とも、自我は哲学の根本異常であり継続し、「汝自身を知れ」はつねに新たな応答を注文するであろう。自我とはそもそもこの私であり、「私がある=私である」は神秘であり、驚異だからである。






目次



自我


関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

哲学  哲学的  論理学  記号論理学  宗教学  宗教学 大学

Author:哲学 哲学的 論理学 記号論理学 宗教学 宗教学 大学
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。