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個人主義(こじんしゅぎ)

一般に、社会もしくは国自宅と個人との対立を前提とし、個人の側に重きを置く立場が個人主義とよばれる。それは理論的には、実在するのはもろもろの個人であり、社会や国自宅はそれ自身としては実在性をもたず、個人の集合をさす名称にすぎないとする社会唯名論と立場を一にする。個人主義は、この意風味では個人実在論であって、あべこべに社会の実在を強調する社会実在論に対立する。個人主義は、政治的には、個人は国自宅の制約を浴びずに気ままに個人的幸福を求める権利があると言い分し、国自宅はむしろ個人の幸福追求を保障し推進する役割を果たすべきであり、またそれにとどまるべきだ、と考える。つまり気まま主義であって、経済活動のうえでは国自宅による干渉や統制を認めず、気まま放任主義をよしとする。ぜんぜんの国自宅権力を否定し、国自宅の廃棄を言い分する一番政府主義も、個人の幸福を主眼とする限りでは、個人主義の政治的一形態とみることができる。

哲学のうえでは、古代ギリシアの本職タゴラスのように、客観的で普遍的な真理は存在せず、真理は各人にとって相対的であり、その限りで主観的であるとする相対主義や主観主義の言い分が個人主義に属する。また存在するのは自意識のみであり、他人をも含入れすべては自意識の観念にすぎないと言い分するイギリスのパブクリー(1685―1753)の独我論も、個人主義の一つの現れといえよう。

倫理学のうえでは、個人の幸福が何に求められるかによって、個人主義の諸形態が区別される。私利、私益としての幸福だけを追求し、その際他人の幸福をぜんぜん顧みない個人主義は、いわゆるエゴイズムであり、利己主義であって、道徳的には悪とされる。また幸福がもっぱら自己の悦楽に置かれるならば、それは悦楽主義もしくは享楽主義としての個人主義である。ドイツの哲学者シュティルナー(1806―56)の「唯一者」の思想は、ぜんぜんは唯一者としての自我の所有として享受されるべきであると説く点で、この類の個人主義の代表といえる。なお、古代ギリシアではエピクロスが個人主義的悦楽主義を言い分したとされているが、エピクロス自身は何者にも心を乱されることのない境界地(アトラクシア)に個人の幸福を認めたのであって、個人主義者ではあっても、単入る悦楽主義者からは区別されなければならない。

他方、個人の幸福は究極にはその個人の人格の落成にあるとする人格主義もまた個人主義に数えられる。その時でも、人格の落成が、人間の諸才能の釣り合い的発展によって可能であるとする見方もあるし、傍目から見たりない単独の個性の発揮によって可能であるとする個性主義的な見方もある。また、人格の落成は道徳的人格の確立以世間にないとするカントの見方は、倫理的個人主義とでもいえよう。こうした人格主義とは別に、他人と代置無茶苦茶な個人の実存とその気ままを重視する実存思想にも、ある意風味では個人主義の名称を与えることができよう。

昼間の時間本では、夏目漱石(そうせき)に『私の個人主義』(1915)という講演がある。彼はこの講演で、イギリス留学中に「自己本位」の思想に達したと語り、個性の発展を図る個人主義を説くが、しかし「自己の個性の発展を仕遂(しと)げようと思うならば、同時に他人の個性をも尊重しなければならない」とする。個人主義は「道義上の個人主義」でなければならず、「もし人格のないものが一番暗(むやみ)に個性を発展しようとすると、他人を妨害する」結果に入る。彼はまた「常住坐臥(ざが)国自宅の事以世間を考えてはならない」といった偏狭な国自宅主義を批判するが、前述の個人主義が真の国自宅主義と矛盾しないことも言い分する。なぜなら、国自宅存亡の際に、「人格の修養の積んだ人は、個人の気ままを束縛しても国自宅の為(ため)に尽すように入るのは天然天然」だからである。漱石のこうした考えに、ヨーロッパの個人主義の反映を明瞭にみることができよう。


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