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弁証法(べんしょうほう)

一つの物事を対立した二つの規定の統一としてとらえる手立て。だが、弁証法の語源にあたるギリシア語の「ディアレクティケーdialektik」は「問答法の」という意風味の形容詞であるから、名詞を付け足すと、「ディアレクティケー?メトドス」(『国自宅』533c7)、もしくは「ディアレクティケー?エピステーメー」(『ソピステス』253c2-3)となる。ディアレクティケーは、プラトンによると、問答によって、「それぞれのものがまさにそれであるところのもの」へと迫り、やっとはものの第一原理、善そのものを知性の働きによって真っ直ぐに把握しようとする探究の行程(メトドス)、言論の旅行路(ポレイアー)であって、これこそ最良の学問(エピステーメー)である(『国自宅』592a以下)。

本職ティノスは「ディアレクティケー」を「それぞれのものが何であり、いかなる点で他と異なっているのか、そして共通点は何であるのかをことばでもって表すことのできるわざである」と定義して、「上方の世界に導かれるにふさわしい人は、(1)知を愛し追求する人、(2)美しい音色を好む人(音楽?文芸の教養のある人)、(3)愛に生きる人でなければならぬ。この3類の人に、感性界から知性界への旅行路と、知性界から、そのはてへの旅行路という2段階の旅行路がある。ディアレクティケーは、われわれを〈善〉、〈第一原理〉へと導く道程である」と述べている。

ソクラテスの問答法は、特定の向こうとの問答を案内して「ものの何であるか」を考察するものであるが、それはほとんどの時、まったくの否定に終わってしまった。ヘーゲルは、懐疑主義思想の探求を便秘気味て、その否定のなかにひそむ肯定の契機が出てくるとみなして、弁証法を一つの物事を対立した二つの規定の統一としてとらえる手立てという緩やかな意風味で用いた。

その対立の統一?矛盾を真かつ必然とみなすか、偶然かつ仮象とみなすか。運動の存在を言い分することに含まれる「アキレスと亀(かめ)」のような矛盾を指摘して、運動、変化、多様の存在を否認したゼノンはア書き出したテレスによって弁証法の父とみなされた。しかしゼノンの論理を認入れ、なおかつ運動の存在を同意する者は、「運動が矛盾の実在を実証している」と言い分する。「万物は流転する」と語ったと多くの人がみなしてきたヘラクレイトスは、「人は同じ川に二度なることができない」という。彼によれば、宇宙は絶えず消えつつ燃えている火のようなものである。静止して存続している物も、実際には二つの対立する力がバランスしている心もとない定なコンディションである。近代においても、ヘーゲルは、存在を、絶えず新陳代謝によって、自己を世間界に分解させながら、同時に自己を再生産し、同一を維持することだと理解している。対立する力のバランスという鉄則が、静止した存続という現象を拠り所ている。

前述のように「ディアレクティケー」は、「問答法の」という意風味であり、プラトンの著作では、ソクラテスの批判に応答しながら、真理に到達する手立て、否定を便秘気味て精神が真理にまで高まる本職セスが弁証法である。否定を便秘気味て高揚する精神は同一の精神である。

ヘーゲルによれば、精神に限らず、発展?発育?変化するものには、「他となりつつ同一を維持する」という「対立の統一」が含まれている。発展?変化の限度点では異なるものが同じものである。この限度の矛盾性が、数学においては微分に表現される極限点に成立する。グラフ上接点で示される極限点では、メロディー線が直線に等しい。微分の弁証法的な解釈には、「点の鉄則的な規定として隣接点との関係が含まれる」という原理がある。もの一般にこの原理を拡張すると、「あるものの本性には他のものとの異なり等の関係が内在する」となる。これは、「関係は実体と同様に実在する」といっても同じことである。ここからさらに、「内的な鉄則とは多様な関係の集約である」という規定を導き出すと、異常は内なるものと世間なるものとの関係という構造に射映される。

ヘーゲルは、同一の構造を心の内省のうちにもみいだす。心がその心を意識するとき、意識する心と意識される心とは、同一であって、しかも同一ではない。主観としての心と客観としての心が同一であるからこそ、世間部の媒介を経ない真っ直ぐの知が成り立ち上がる。たとえば、山を見る私は自分が「山を見ている」ということを知っており、「見る」という意識活動を意識する反省意識は見る意識と同時に働く、同一の意識である。しかし、知る主体と知られる客体という作用面での区別がある。したがって、内省?反省のうちには「区別のない区別」という対立者の同一が含まれる。

内なるものと世間なるもの、鉄則と現象、一なるイデアと多なる個物、意風味するものと意風味されるもの、主観と客観は、内省?「自己意識」の構造を媒介として統一される。ヘーゲルは、新プラトン派の説く「イデアの流出」や、キ書き出した教的な「受肉」の概念をこれによって合理化する。その結果として天性る「ものの把握」(概念)には、鉄則という普遍、「このもの」という個別、鉄則が個別化されているという媒介関係そのもの(特殊)が含まれている。これを要約すると、「ものとは推論(普遍、特殊、個別の総合)である」となる。ヘーゲルは、「三要素の一体」という新プラトン派の観念を、キ書き出した教の「三位(さんみ)一体」に重ね合わせ、近代汎神論(はんしんろん)の土台の上に据え訂正する。

以前、ヘーゲルの弁証法を定立(テーゼ)、反定立(アンチテーゼ)、総合(ジンテーゼ)の三段階(略して正?反?合)で構成される論理であるという説明が行われてきたが、この語法はヘーゲルのテキスト中にはない。フィヒテの用語を援用してヘーゲル弁証法を説明したものである。

ヘーゲルの弁証法では、数の連続体における限度の弁証法、等質性の弁証法と内と世間の弁証法、非等質性の弁証法が重ね合わせになっているが、キルケゴールの「質的弁証法」では、非等質性のなかにあべこべ説的なものが導入されてくる。たとえば、「イエスと自己との2000年を隔てた同時性」という概念がある。K?バルトの「弁証法神学」には、神人の断然的な断絶のさなかにおける存在の同一という思想がある。キルケゴール、バルトでは、連続性?等質性を拒絶した断絶におけるあべこべ説的な媒介が、弁証法の概念を形づくっている。

マルクス主義では、認識以前の物質の構造が精神に反映されて、弁証法の構造となると言い分される。自己意識の内省構造の弁証法性を否認して、「関係の実在性」という存在論的な規定として弁証法がとらえられる。


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