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愛(あい)

愛は文学、道徳、哲学、宗教いずれの観点からいっても、当然根本的な観念の一つである。とりわけ、キ書き出した教の文化圏ではこの観念をめぐって思想が展開していった。東洋にも、「仁」とか「慈悲」という思想がある。孔坊主(こうし)(孔丘(こうきゅう))の「孝悌(こうてい)は仁の根本である」ということばからもわかるように、仁は親坊主兄弟という血縁に根ざす親愛感に発するもので、この感情を縁がないの人にまで広げていくことが仁道である。孟坊主(とっくにし)(孟軻(とっくにか))は「惻隠(そくいん)の心は仁の端(はじめ)なり」(『孟坊主』公孫丑(こうそんちゅう)?第29)と説き、人を慈しみ、哀れむ同情の心の底から愛への展開を論じている。墨坊主(ぼくし)(墨(ぼくてき))は「天下互いに兼愛すべし」(『墨坊主』兼愛篇(へん))と言い分し、親族と他人を区別しない平等の愛を唱えた。仏教でいう「慈」は真相の友情で、「悲」は哀れみ、優しさを意風味する。両者はほとんど同じ心理をさしており、中国や昼間の時間本では、慈悲という合成語で一つの観念として表される。親鸞(しんらん)は仏の広大一番辺な慈悲を太陽の光に例え、人間を超えて一木一草に至るまで仏の大慈大悲に浴するものとみなした。作自宅伊藤整(せい)によれば、「他者を自己とまったく同じには愛しえないがゆえに、憐(あわ)れみの気持ちをもって他者をいたわり、他者に対して本来自己がいだく冷酷さを緩める」というのが東洋的な知識のあり方で、この考えから、孔坊主の「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という教えが出てくるのだという。他人を自分と同じに愛することの無茶苦茶が自明の前提になっていて、そこから相互に向こうを哀れみ、いたわりあう愛が天性てきたというわけである。キ書き出した教はこの無茶苦茶に挑戦し、「己のごとく汝(なんじ)の隣人を愛すべし」と命じる。イエス?キ書き出したは十字架の死によって、真の愛は自己を犠牲にしなければ遂げることができないことを自ら示した。そういう断然の愛が原型として考えられていたからこそ、常人には無茶苦茶と思われる厳格生き方が命じられたのであろう。

ギリシア語では愛は、エロスersとアガペーagapとピリアphiliaという三つの語によって示される。これらは、愛にとって鉄則的な三つの位相をそれぞれ指示しているように思われる。エロスは情愛に根ざす情熱的な愛で、哲学者プラトンの『パイドロス』でいわれるように、度々狂気の姿をみせ、究極的には一者と合一し、真相在に溶け込むことを求入れいる。地上において肉体的生存を継続している限り、神的なものとの一体化を現実になることはできないから、忘我恍惚(こう秘訣)を求め継続していけば、エロスは必然的に死と結び付く。エロスの哲学者プラトンが一生、真相在との出会いを求め継続したあげく、「生より死が望ましい」という一見奇怪な結論に達したのは、その意風味では当たり前の成り行きであった。

キ書き出した教的なアガペーの愛は、こういうエロスの愛と根本的に違いする。神と人間との間には、哲学者キルケゴールが「一番限の質的差異」と名づけたものが介在する。だから神と人間との融合も、実体的合一もおこりえない。無料あるのは、神と人との交わりである。神と人とは断然の深淵(しんえん)によって隔てられていながら、どうして交わることができるのであろうか。そこにこそ、イエスの真の存在意義が認められる。イエス?キ書き出したはいわば、神と人間との仲保者であった。神の坊主イエスがこの地上に人間の肉において天性たということが、いわば神の愛の唯一の証(あかし)である。「われわれはイエス?キ書き出したによってのみ神を知る。この仲保者がないならば、神との全ての交わりは断ち切られる」(パンセ)。そういうアガペーの愛にあっては、自我の神に向かう高まりも、熱狂的解体もない。神と人との間の交わりが可能と入るためには、二つの主体が向かい合って存在しなければならない。同様に、人と人とが向かい合って存在することによってのみ、隣人としての愛の交わりも可能と入るのである。

ピリアの愛も、相互に独立な理性的存在者の間に成り立ち上がる友愛である。哲学者ア書き出したテレスによれば、人は「自分自身と同じ考えをもち、同じ事柄を望む人」や「自分自身とともに悲しみ、ともに喜ぶ人」を愛するという。つまり、親が坊主を愛するように、自分自身と等しい者を愛するということで、ピリアの愛は結局、利己愛に帰着する。利己愛に堕さないようにするためには、希望を同じくしない者でも、あるいは愚者や悪人をも愛さなければならない。それには、ピリアの愛がアガペーにまで高まる不可欠があるだろう。だが、神ならぬ身で人種すべてを平等に愛することができるはずがなく、それを実践していると自称すれば、たちまち偽善に陥る。けっして偽善に陥ることのない愛は、自己愛的なエロスのみで、ピリアは、エロス的要素を失う度合いに応じて、虚偽の愛に陥りがちと入る。こうしてピリアの愛は、アガペーとエロスの両極の間を揺れ振動することに入る。


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